銀閣寺(慈照寺)

銀閣寺

銀閣寺の正式名称は慈照寺(じしょうじ)といいます。観音殿の名が銀閣なのですが、金閣寺と同様に寺全体が銀閣寺と呼ばれるようになりました。

銀閣寺(慈照寺)の基本情報

よみがなぎんかくじ(じしょうじ)
建立年1490年(延徳2年)
アクセス京都駅から京都市営バス100号系統「銀閣寺前」下車
京都駅から京都バス18, 51系統「銀閣寺道」下車
四条河原町から京都市営バス32号系統「銀閣寺前」下車
四条河原町から京都バス55系統「銀閣寺道」下車
三条京阪から京阪バス56, 56A系統「銀閣寺道」下車
駐車場バス12台 2500円 普通車40台 800円
自動二輪・自転車 200円
いずれも1日の料金
拝観料大人・高校生 500円 小・中学生 300円
拝観時間夏季(3/1~11/30)8:30~17:00
冬季(12/1~2月末日)9:00~16:30
住所〒606-8402 京都府京都市左京区銀閣寺町2
電話075-771-5725
公式サイトhttps://www.shokoku-ji.jp/ginkakuji/
(相国寺サイト内)

銀閣寺(慈照寺)の歴史

室町幕府の八代将軍足利義政が建造

義政は1482年(文明14年)から東山山荘(東山殿とも)の建造にとりかかり建造中から東山山荘に移り住みました。建造にあたって義政は参考にするためか金閣寺を何度も訪れていたようです。結局、義政は山荘の完成を見ることなく1490年(延徳2年)に亡くなりました。義政の遺志により相国寺が東山殿を寺にし、法号慈照院殿から二文字をとり慈照寺と名づけられました。

東山文化

義政が住む東山山荘は公家や武家や禅僧の社交の場としても機能していました。公家文化や武家文化や大陸文化の禅宗などの融合や発展が北山文化の時代よりもさらに進みました。特徴面では金閣寺が北山文化の象徴的な豪華さ華麗さとすれば、銀閣寺はわびさびと言われたりします。

兵火による消失と再建

1550年(天文19年)の室町幕府の13代将軍足利義輝と三好長慶の合戦や、1558年(永禄元年)の合戦で観音殿(銀閣)と東求堂以外は消失してしまいます。江戸時代になって1615年(慶長20年)に宮城丹波守豊盛により大改修が行われました。また1614年(慶長19年)に豊盛の孫豊嗣は方丈を造営し、1639年(寛永16年)には観音殿の屋根の修理や東求堂の修理が行われました。

銀閣寺(慈照寺)の境内

総門を入るとすぐに銀閣寺垣があります。銀閣(観音殿)は金閣寺とは対照的に銀箔姿ではなく落ち着いた風情です。銀閣を映し出すように錦鏡池(きんしょうち)という池があり、このような点でも金閣寺との共通点を感じます。方丈(本堂)の前には白砂を段状に敷き詰めた銀沙灘や円錐台形(プリン形)の銀沙灘も見所の一つです。

銀閣寺(慈照寺)の関連情報

ユネスコ世界遺産

銀閣寺は古都京都の文化財として1994年12月17日に世界遺産として登録されました。他に銀閣寺などを含む17ヶ所が同時に登録されています。

哲学の道

哲学の道は銀閣寺へ通じる琵琶湖疎水沿いの道としても有名です。銀閣寺までの散策コース、または銀閣寺見学を終えた後の散策コースとしてもおすすめです。哲学の道の北端にある銀閣寺だけでなく南端の近くにある若王子神社や南禅寺もおすすめの観光スポットです。

銀閣寺は銀箔だった?

金閣寺と同様に銀閣寺は銀箔をはられていたのか、これには諸説がありました。錦鏡池(きんきょうち)の反射光が銀閣の壁面の漆にあたって銀色に見えたことにちなんだという説。義政は建造にあたって金閣寺を何度も訪れたことから、観音殿は金閣に対する銀閣として銀箔をはっていたのではないかとする説。義政が完成を待たずに死んだことから実現していなかったものの銀箔をはる予定であったとする説。

時は経って科学技術が進歩した2007年にエックス線と誘導結合プラズマ質量分析法による精密な元素分析を行った結果、銀閣の壁から採取したサンプル内から銀は検出されませんでした。

相国寺派

金閣寺と銀閣寺は相国寺を本山とする臨済宗相国寺派のお寺です。京都市バスの102号系統は金閣寺と銀閣寺を結ぶ経路で、相国寺の最寄りのバス停「同志社前」を通るコースを移動することができます。京都市バス204号系統(巡回系統)も102号系統より迂回しますが巡回コースが金閣寺と銀閣寺の近くを通ります。観光プランを考える場合は金閣寺と銀閣寺を散策するのにおすすめです。

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